試写にて鑑賞。
アドルフ・アイヒマン。第二次大戦下、ナチス・ドイツがおこなったホロコーストの主要人物。戦後、逃亡を続け、アルゼンチンで偽名で暮らしているところを逮捕され、裁判にかけられた。
彼の罪は、多くの罪も無いユダヤ人たちを処刑したことによるもの。しかし、彼は組織としての命令に従ったまでという主張。一切、罪を認めることなく判決の日をむかえる。
それまでもラジオ放送で戦犯とされる人々の証言は広く伝えられたようであるが、時代の先端はテレビ放送に移行しつつあった。
テレビマンたちは、なんとしてもありのままの真実を伝えようと奔走する。
映像であれば、被告席に座るアイヒマンの表情が何の脚色も施さず、視聴者の目に晒される。
そこで、アイヒマンが特別な人間かどうか知ることが出来る。
戦時下の狂った正義の名の元で、普通の人間が狂気のホロコーストを押し進めたのか、あるいは稀にみる「怪物」だったのか。
テレビマンたちはアイヒマンの映像を通して、彼がその人間性を露わにする瞬間を切り取ろうと目を凝らす。
ホロコーストを体験した生存者たちが、過去の呪縛におののきながらも精一杯の証言をする。目を背けたくなるような記録映像が流される。それでも、アイヒマンは顔色1つ変えず、じっと動かず椅子に座り続ける。
証言者たちの方が過去の自分の記憶に頭を抱え、卒倒する。
テレビとしては、証言者たちのギリギリの様子も大切だ。証言者たちが抱いていた恐怖が映像を通して広く伝わっていくから。
しかし、この仕事のオファーを受け、イスラエルにやって来たドキュメンタリー監督は、それ以上にアイヒマンにこだわり続ける。
鉄のようなアイヒマンの表情を壊してこそ、アイヒマンに買ったと言えるのではないかと。
監督やスタッフたちの思いの違いで、撮影ブースは、空気が張り詰めていく。
テレビ放送を思い立ち、様々な手を打ちながら、裁判の日を迎えるまでの前半はやや短調というか、淡々というか、今一つ乗り切れず、少々寝落ちしてしまった。
ところが、アイヒマンが逮捕され、登場人物たちの動きが何台ものモニターに向き合う放送ブースの中に制約されてからの方が、映画としての「動き」が出てくる。
実際の物だと思われる裁判中の証言者やアイヒマンの映像、さらにはホロコーストの実態を切り取った記録映像とそれらをモニターを通してじっと見つめる撮影スタッフたち…
ほとんど動き(移動)の無い2つの舞台。
しかし、これがより緊張感を高めていく。眠気も一気に吹き飛ぶ後半。
90分強でよくまとめられた物だ。これより長くなっても確かに冗長になってしまいそうだが…
最近は埋もれた「事実」を映画化することが多い。この映画もまさに。アイヒマンの裁判を知る人は多のだろうが、そこに至るまでの経過を知る人は少ないはず。
なぜそこに至ったのか。その真実も十分に語られる価値がある。