岩波ホールにて鑑賞。先日、試写鑑賞した「みかんの丘」と併映。どちらも、ジョージアの作品。
民族間の戦争が人々の生活に強い影響を及ぼしたジョージアの日常を描いた作品。
「みかんの丘」と同じように主人公は老人で、戦争で怪我をした兵士を介抱してやることで、彼らの日常に「戦争」が関わってくる。
まず、本編が始まる前に映画の舞台となるジョージアのある地方に特有の農民の暮らしについて字幕が流れる。
それによると黒海に注ぐ川の下流域の農民達は雨が降ると農地は水浸しになり、作物が育たない。それほどの雨が流れ込む川は上流から押し流されてきた土砂が下流域にみるみるうちに堆積し、中洲を作り出す。
農民達は、誰の土地でもない中洲に自分の居場所を見つけ、そこに小屋を作り、とうもろこしを植える。そして、次に雨が降る前に収穫し、冬に備えるのだ。
映画は、ある「とうもろこしの島」に暮らす老人とその孫娘を映し出す。
老人が見つけた中洲はまだ小さくて、小屋を建てる場所と船着場となる浅瀬を確保したら、ほとんど余るところが無い。
頑丈な木船で小屋を建てる木材や大工道具を運び込み、時折10代半ばと見える孫娘に手伝ってもらいながら、2人が横になれるくらいの小屋を建て始める。
小屋が出来上がる頃には、中洲も大きくなり、とうもろこし栽培が可能になる。
孫娘の服装で、季節が変わっていくのが分かる。最初は膝辺りだったとうもろこしが優に人の背丈を越える頃に、島に事件が起きる。
戦争で傷ついた兵士がとうもろこしの薮の中に逃げ込んだのだ。老人は彼を小屋へ運び、手当てしてやるのだが、言葉の通じない敵の兵士だった。それでも、老人は無言で彼を介抱する。
快方に向かった兵士に孫娘は年相応の好奇心を示す。亡くなった両親に代わり育ててくれる祖父との生活しか知らない孫娘。対岸で銃声がするたびに自分の暮らす国は戦争中なのだと思い知る孫娘。
閉塞感の漂う彼女の毎日に若い男の登場は大事件だったに違いない。しかし、老人はそんな孫娘を船に乗せ、島から遠ざける。一応、帰る家はあるんだな…
島に、傷ついた敵兵を探しに老人の側の兵士たちがやってくる。敵兵については一切語らず、彼を守った老人。
兵士は黙って島を後にする。
再び孫娘が島に戻り、収穫の準備を始めた時、嵐がやってくる。土地に根っこのない中洲はひとたまりもない。
なんとか孫娘が食べていくだけのとうもろこしは乗せられただろうか。祖父が船を川に押し出した時、川は牙を剥く。老人ごと小屋を押し流してしまう。波に翻弄される小船には孫娘が乗り込んでいたが、老人を助けることも出来なかった。
中洲の一生…という映画だ。
春が来て、中洲が姿を見せ始めた時、農民は我先にと新しい中洲を見つけ出す。季節が夏になる前に小屋を完成させて、とうもろこしの栽培が始まる。秋になって、実がなるころには再び中洲が姿を消す。
自然のサイクルに人間がちょっとだけ力を借りて、食料を得る。けして、贅沢できるわけではない。その日を生きるために命懸けで川の中洲に立つ。
淡々と描かれていくが、彼らの日常がいかに不安定なものなのか強く感じる。いつ足元をすくわれるのかとザワザワした気持ちになってくる。
「みかんの丘」よりは、確かにそこにある「戦争」が身に迫って見えてはこない。でも、老人や孫娘の緊張した面持ちがやはり日常に「戦争」があることを感じさせる。
戦うシーンばかりが「戦争」ではなく、こういう戦地の市井の人々の日常を追うのもまた「戦争」の一端だ。
ラストで晴れ渡った空のもと、小さな中洲に辿り着く男。中洲の土の状態を確かめる彼が掘り出したの人形。
あの孫娘が最初に中洲を訪れた時に持ってきた人形。こうして、中洲での暮らしが引き継がれていくのだ。
厳しい暮らしの中で、自然と共存しながら、必死に生きる人の姿が心に残る。