今日も徒然、中洲日記

ほどほどに映画が好き。ほどほどに食べることが好き。日々気づいた事を綴ります。

アリスのままで


試写会にて鑑賞。


まず、大きなホールの試写会は当選確率は上がるけど、不愉快な思いをする確率も上がる。


ラストシーンの余韻が残るエンドロール、真後ろの女がデカイ声で「あぁ〜、よく寝たぁ〜」って。


「どんな話だった?」と同行者に聞いてる。そんなに眠かったら、試写なんか来ないで、サッサと帰って、家で寝ろっ‼


こんな人が来るから、無駄に混雑するんだよ( ̄^ ̄)


でも、寝てたって人は後ろの女だけじゃない。あちこちから「寝ちゃった」という声が…


「寝ちゃう=つまらない」ってことかというと、この映画に関しては違う気がする。


主人公は若年性アルツハイマーを発症した女性。年齢は50歳。アルツハイマー発症者の中で「50歳」というのは十分に若いということ。


試写会場にやって来た若い女性たちにとって「50歳」という年齢はかなり先の事で、自分に当てはめるにはあまりにも遠い未来ということなんだろう。


むしろ、自分の親世代の話としか受け止められないのかも。だとすれば、つまらないのではなく、関心が持てないということではないのかしら?


私にとって、主人公アリスは同世代の女性だ。だから、お気楽に寝てしまえる人達が羨ましいほど身につまされるお話だった。


海水浴に行って波打ち際に立った時、波が引いていくと同時に足元の砂が少しずつ削られて行き、その不安定さに急に心細くなって足元を見たことはないだろうか?


アリスの現在の状況はまさにそんな感触ではないか。


私のような家庭の主婦と違い、アリスは社会的にもキャリアを持ち、人の尊敬を集めていた人だ。


同じことを何度も繰り返したり、今話していたことも忘れてしまったり、彼女の病気を理解しない人には、これまでの彼女からは想像も出来ない姿に好奇の目を向けることだろう。


そんな他者からの視線に耐えきれずにアリスが口にする言葉が悲しすぎる。


「癌なら良かった。癌なら、奇異な目で見られないで済む」と。病気と闘う姿さえも人の心を打つから…でも、アルツハイマーは違うと。


少しずつ進行していく病気に対する恐れ、不安。遺伝の可能性もある「家族性」だったこともアリスを追い詰める。


けして、彼女の責任ではないことだが、子供たちに将来への不安を与えたことで子供たちに詫びる。


こうした、1つ1つの出来事を丹念に描いている。


もし、自分がその立場になったらと考えながら観ていた。他人事ではいられない。


アリスの置かれた環境はかなり恵まれている。自身も大学の研究者で教鞭をとる。


夫は医学博士。長女は法科大学院を出た後、キャリアを積んでおり、長男は医大で学んでいる。そんな中で次女だけが自由を求めて、大学に行かず、演劇を志し、小さな劇団の舞台に立つ。


アリスを十分に介護できるだけの経済力がある家族だったということ。なかなか普通の家庭では考えられない。


そんな恵まれた環境でさえ、本人はもちろん家族の迷いや葛藤は大変なものだ。


財政的にも仕事を続けなければならないし、仕事での成功も得たい。キャリアを持つ人ならではの贅沢な悩みではあるけれど、辛いことに変わりはない。


結局、「自由」を求めて家を出た次女が、夢を実現するための場所をアリスのそばに変更して寄り添うことになる。


なんだか、皮肉なものだ。


ラストシーンはアリスが18歳の時に事故で亡くなった姉が存命中にアリスと2人で浜辺を楽しげに歩く後ろ姿を追ったフィルムで終わる。


まだ小さかったアリスが姉に寄り添うように歩く後ろ姿。それは、これからのアリスと次女との姿を象徴したのだろうか。


余韻に浸るラスト。


「なんか、中途半端じゃない?この終わり方」といきなりどこかの女の声。


あぁ、がっかり╮(╯-╰")╭


これは映画です。どう描こうと監督の勝手です。アリスが完全に自分を見失い、施設に入って死ぬまでを観たいですか?


ほんと、今回のお客のマナーは酷かった(私のまわりだけ?…)


しかし、まぁ、お話的には胸にズンと来る。お金を払って観る人なら、もっと真剣に観るんだろう。


正直あまり好きではない女優さん、ジュリアン・ムーア。何をやってもどこか不安げな眼差しで演じていて、どうも好きになれなかった。でも、この役はアリスの心情を演じるのにぴったりとハマっていた。


お見事な演技。妙に感動を煽る演出もなく、非常に淡々と「その日」を迎える準備をするアリスと家族の日常をゆっくりと観てほしい。