今日も徒然、中洲日記

ほどほどに映画が好き。ほどほどに食べることが好き。日々気づいた事を綴ります。

消えた声が、その名を呼ぶ


試写にて鑑賞。会場は初めてのブロード・メディア・スタジオの試写室。「タン、タン、タ〜ン‼」という中国活劇風の特徴的な音で会社のシンボル・マーク(本編前にバンっと会社のマークが出てくるのをなんて言うのかな?)が登場する会社だ。


そちらの試写室ということで、やっぱり快適。場所は分かりにくく、駅から近く地下鉄出口から真っ直ぐなのに迷ったけど(汗)


外観が倉庫みたいな建物で、まさかホントにその中にあるとは思わず、隣の大型マンションをぐるっと回ってしまった(汗)


その快適な空間で楽しませていただきました。138分…長いです。


舞台はオスマン帝国。時は第一次世界大戦の頃。当時、オスマン帝国にはイスラム教を信じるトルコ人キリスト教を信じるアルメニア人がおり、イギリスと戦火を交えていた。


同じ国に暮らしていても、民族や宗教の違いにより、それぞれの立場が変わる。それは、今も世界のあちこちで起きている紛争と違わない。


その辺りのことが本編冒頭で少々説明がある。正直、第一次世界大戦の日本とは離れた地域の状況やあまり表立って語られない出来事については全く知らなかった。


国内で少数派のアルメニア人は、戦争中のオスマン帝国で「敵」と見なされ、トルコ人たちに強制連行され、男たちは劣悪な条件下での使役に就かされ、最終的には最前線に送り込まれることになる。


残された女、子ども、老人は住む土地を追われ、砂漠での「死の行進」で多くが命を落とす。やっとたどり着いたキャンプ地でも、雨風を凌ぐ物は無く、ただ死を待つばかりの境遇に。


主人公は、強制労働の最中に多くの仲間を失いながらも生き別れとなった妻子に会うために必死に生きる。


ある時、それまで見張りをしていた兵士達が忽然と姿を消した。そして、代わりに現れた男達は彼らを処刑するために連れ出すのだ。


こうした、アルメニア人に対する過酷な仕打ちは「アルメニア人大虐殺」と言われ、伝えられているそうだ。


主人公は首を刺され、重症を負ったが、一命は取り留め、助けられた。


傷の影響で声を失った主人公。出会った人々に助けられながら、なんとか生きていく。


そして、妻子が向かったとされるキャンプ地にたどり着くが、そこで知るのは家族の死だった。かろうじて最期の時に会えた義姉を見送り、ふらふらと立ち上がる。


彼はただ生きる。手を貸してくれる者に出会い、少しずつ力を取り戻していた時に昔の弟子に会い、双子の娘たちの生存を知る。


しかし、戦後の混乱にあって、その後生き延びている保証は無い。それでも、彼は娘たちの足跡を追う決意をする。


行く先々で入れ違いになってしまう娘たち。それでも、彼は足を止めない。どこにそれほどの強さがあるのか。ただ、その意思の強さに胸打たれる。


彼は、トルコからキューバに辿り着き、さらにはアメリカに…


彼がやっとのことで辿り着いたアルメニア人が暮らす村で娘に出会う。だが、ここでも一足遅れでもう1人の娘の最期に間に合わなかったのだ。


信仰篤き父親。様々な過酷な出来事に神を信じる心も失われつつあった。何年もの時間をかけて愛する娘に出会ったが、妻の消息は分からず、1人の娘は失った。これほどの対価を払わせるほどの罪を彼は犯したのか…


この映画はのドイツ人・ファティ・アキン氏が監督。彼はこの映画のベースとなる虐殺を行った側の流れを汲むトルコ系のドイツ人という話だが、私はトルコ人だと思い込んでた。民族の違いは難しい。「トルコ系」という言葉だって、トルコという国系なのか、トルコ人という民族系なのか、それすら私は知らないんだもの…


トルコ国内では、現在でも結論の出せないらしいその事件の扱い。それをこうして、映画として世界に伝える。映画監督って使命感の塊だ。


父親が強制労働から放たれて、家族を探すため放浪する映画なので、当然長尺にはなるだろうが、正直キューバ辺りからは「まだあるのか」と思ってしまった。


こうして、細部まで丁寧に描くのは実話ベースなのかと思ったが、チラシにもそのような告知は無かった。


ということは、当時、アルメニア人の誰もがこのような厳しい境遇にあったということなのだろう。


ラストで主人公と娘が出会う場所は、それまでの過酷で重い主人公の道のりを妙にカラリと締める印象だ。アメリカの渇いた大地のなせるワザ。


試写後、映画評論家の松崎健夫さんとWOWOWの映画工房でお馴染み中井圭さんのトークショーがあった。


映画の歴史的背景を全く知らなかったので、とても勉強になったし、「妄想」で評論する松崎健夫さんの話からはなるほど〜と思う場面が多く、とても楽しかった。


意図せざるとしても、監督の日頃の物事に対するスタンスが、作品に反映されるのは間違いないだろう。そうなれば、松崎健夫さんの「妄想」は妄想でなくなるかも…そう思えてきた。