今日も徒然、中洲日記

ほどほどに映画が好き。ほどほどに食べることが好き。日々気づいた事を綴ります。

最愛の子


試写にて鑑賞。


鑑賞後、TwitterのTLに上がってくる皆さんの感想を見て、ちょっと戸惑った。


なぜなら、産みの親と育ての親の物語として、捉えてる人が多いということ。


これは、そんな簡単な話じゃないと思う。元は人身売買の対象として、子供が誘拐されていることに端を発する問題。


主人公の3歳の息子がちょっと目を離した隙に姿を消す。様々、手を尽くし、探し続ける。謝礼金欲しさの詐欺にあったりもするが、それでも息子かもしれないという思いで足を運ぶ。


同じように子供が行方不明になった親たちと連絡をとり、互いの思いを吐露し、励ましあいながら、微かな希望を胸に探し続ける。


主人公の息子は、田舎の農家で発見される。それは、彼ら両親の苦悩を知った善良な第三者からの情報だ。この謝礼も受け取らず、去っていく情報提供者こそもう少し描けば良いのにと思ったが、ここにもいろんな背景があるのかな?


3年後、やっと見つけ出した息子は既に主人公たち両親を忘れていた。警察に自ら実の親こそが連れ去り犯だと訴えるほどだ。


貧しい農家に暮らす育ての親は、夫が連れてきた息子を自分の子として育てていた。まさか誘拐したとは思わずに。


警察から事実を告げられるが、それを認めようとせず、なんとしても子供を取り戻そうとする。


まず、ここが理解出来ない。少なくとも、息子については、亡くなった夫が誘拐したことが確実だ。娘の方も捨て子だと言って、連れてきたらしいが、まず、誘拐をしてきた男の発言など通じるわけもない。


それらを理解せず(理解しながらも…なのかなぁ)、ただひたすら自分から子供を奪うなと反論する。


確かに愛情をもって育てたんだろうが、様々な事実が明らかになっていく過程を経ながらも、一切怯まないその主張の強さに全然共感できない。


劇中、育ての親(この映画の場合だけはホントはこういう言い方はしたくないが…)が偶然息子を見かける。彼女は息子のところに駆け寄る。彼がまだ彼女を「母ちゃん」と呼ぶことに喜び、抱きしめる。


その場に居合わせた、子供が依然行方不明の他の親たちは、彼女が誘拐犯の妻だと気づくと主人公の止めるのも聞かず、彼女に詰め寄り、もみくちゃに。


主人公の事案は、本当に幸運な結果であり、励まし合う親たちにとって、子供を連れ去った者は誰であろうと自分の子を連れ去ったのと同じなのだ。


これだけの親たちの思いをぶつけられながらも、彼女は諦めようとしない。もうこの辺までくると本当にどこまで図々しいのかと。


私はやはり、どうしても子供を連れ去られた親たちの気持ちに寄り添ってしまう。暴力はいけないが、誘拐犯の妻に詰め寄る気持ちは痛いほど分かる。


多分、これは発想の違いなんだろうなぁ。


この映画自体がどちらかに寄り添うのでなく、いずれの立場も平行して描いていく。相容れない物は相容れない物として。親たちの苦しみを見せることで、観る人の目をその背景にある物に向けさせるように。


主人公が寝てしまった息子を抱えて歩く姿こそ、涙が出る。ゴミを捨てるためにほんの少し家を空ける時も彼は寝てしまった息子を抱えて連れていく。


自分が目を離したために息子が姿を消した。その事を絶対に忘れられない彼の姿は非常に辛い。同じ会の仲間が車の中からそんな彼の姿を見ている。


どんなに社会に訴えても、必死に探しても、帰ってきたのは主人公の息子だけ…仲間達は既に心身ともに限界に来ている。その辛さを誰よりも分かる主人公。


その中で、希望を持つためにもう1人子供をと思う夫婦がいたっておかしくない。でも、そこに立ちはだかるのは一人っ子政策だ(今年、廃止にするとニュースになっていたが…)。


戸籍にある子供が死なない限り、次に生まれる子は合法とならない制度。どこかに生きていると思いながら必死に探す彼らにその子の死亡証明書の提出を求める役所。事情を一切考慮しない規則。


親たちが追い詰められていく。


主人公の離婚した妻も息子の願いを叶えようと奔走する。農家で彼の妹として暮らした少女。彼女と一緒に暮らしたいという願いをなんとしても叶えてやりたい。それが、親子の絆を取り戻す唯一の方法だと悲痛な決意をする。


息子が誘拐されなければ、こんな思いなどしなかったのに…


それぞれの思いがどうやって着地するのかと気になった。そこで、ラストに考えもしなかった事実が判明する。


一人っ子政策の元でこのラストの持つ意味は大きい。


これで、育ての親の主張は通らなくなる。再婚した夫と離婚訴訟を勧めている実母も両親揃っていることが条件の養子縁組が叶わず、妹を呼び寄せることが出来ない。


結局、本当に捨て子なのか確証もなく、実の親も申し出て来ない妹は施設を出ることは叶わない。


親の思い云々より、子供が気の毒としか…


エンドロール前に、映画のモデルになった親子が出演者たちと面会するシーンが流れる。モデルになった少年が明るい笑顔を見せていることにホッとする。


そして、主人公のモデルとなった父親は、農村に暮らす育ての親を訪ねる。


劇中で、息子の顔見たさに訪ねてきた育ての親に主人公は言う「恨まないだけで精一杯だ」と、だから「2度と来るな」と。この言葉は本当にモデルとなった彼が口にした言葉ではないか。そんなふうに感じた。


だからこそ、彼の方から出向いて、しっかりと息子が戸惑うことのないように対処したのではないか。


モデルとなった育ての親はカメラの前で言う「前は4人で寝ていたのに、今は1人だ」と。寂しいと訴える。誘拐などしなければ、そんな思いはしなかったのにと思った。


子供が欲しくてもそれが叶わない事情は様々あるだろうが、それでも人の子を誘拐して良いということにはならない。仮に誘拐された子だと知らなかったといっても、その事実が判明した以上、元の生活に戻すのは当然だ。


当然のことが当然でない現実が痛ましい。


こうした問題を広く訴えるための映画だと思えば、共感云々より、観ることが大事なんだろうな。


なまじ、育ててしまったから情が移り、手放すことが出来ないという不幸が生まれる。そして、日常からの突然の逸脱が子供の記憶を失わせて、さらに元の世界が元の世界でなくなるという不幸が生まれる。


そういう意味で哀しい映画だ。だが、けして、誘拐犯の妻の涙には共感しない。この役を彼女がやったから、余計にインパクトがあって、そちらに目が向いてしまったんだろうな。


未だに納得いかないけどね。