今日も徒然、中洲日記

ほどほどに映画が好き。ほどほどに食べることが好き。日々気づいた事を綴ります。

92歳のパリジェンヌ


試写にて。おフランスの奔放なおばあちゃんの明るく愉快な毎日を映画化したのかと思ってた。それほど能天気な邦題だ。


実際には重いテーマで、若い頃から自立して生きる女性だったおばあちゃんの最後の望みが成し遂げられるまでのお話。


助産婦をしながら、多くの人々とふれあい、困っている人や悩める人の立場に寄り添い、彼らを守るために家族を放り出して、「運動」に立ち上がってきた活動家の女性だったおばあちゃん。


若い頃は家庭もあるのに好きな男性と出奔したりして、夫が空港まで迎えに行くこともあったらしい。2人の子供、息子と娘を育てたが、息子の方はそれらの事実を知っていただけに、母とは上手く付き合えない。それでも、それぞれ家庭を持った子供たちは適当な距離を保ちながら、時を重ねてきた。


92歳の誕生日を迎え、子供たちが祝ってくれている席で、おばあちゃんは最後の望みを口にする。


ずっと言い続けてきたことを実行する時が来たと。夫亡き後、1人で生きてきたおばあちゃん。年齢を重ねる毎に出来ないことが増えてきた。誰よりも自立し、誰よりも前を向いて歩いてきたおばあちゃんにはそれが屈辱的で、生きる気力を奪い取っていく。


だからこそ、病院で死にたくないと。死ぬ時を自分で選びたいと。何も安楽死を認めている国まで連れていけとは言っていない、自分として最後の時を決めたのだと。


誰かに付き添わせれば、その人に自殺幇助の罪を被せてしまう。だから、静かに1人で実行すると固い決意を披瀝する。


お祝いムードで盛り上がっていた誕生パーティーは一瞬にして空気が凍りつき、誰もがおばあちゃんの決意に呆然とする。


目の前のおばあちゃんは高齢ではあるが、ハウスメイドの手を借り、同じアパートに住む気のいい黒人青年の介助を得ながら、ちゃんと1人で生きている。


離れて暮らす子供たちには、おばあちゃんが車の運転中に操作を焦って立ち往生してしまったり、エレベーターの無いアパートの階段を1人では登れなかったり、夜中におねしょをしてしまったりして、その心に深い傷がついてることは理解出来ない。


毎日やってくるハウスメイドの女性だけがおばあちゃんの現実を知っている。若い頃は活動家として、生きてきたおばあちゃんは年をとっても、世間への興味は失わず、新聞を読むことが楽しみだ。


だから、ハウスメイドさんが帰る時明日の新聞代を持たせている。棚に並べられた小銭。1日分が積み上げられていて、それが減っていく。小銭の山が無くなった時が「その時」なのだ。メイドさんは知ってるけど、おばあちゃんの現実も知ってるから、彼女の意思を尊重しようと思っている。


自分の意思を貫く強い女性だったおばあちゃん。誰がなんと言おうとも、決意は変わらない。ただ、子供たちが自分の思いを受け入れてくれるのを待っている。


同じ女性である娘は、このまま母親を死なせたくはない。なんとか思いとどまらせるために、今まで以上に母親に関わっいく。母親と接する中で、彼女は段々とその思いを受け入れる準備が出来ていく自分に気づく。


自立した女性として生きた母親。最後まで意思を貫く強い母親。その親と子供たちとの葛藤は、娘と同年代の私には妙にリアルに迫る。


タイトルはおばあちゃんのことを指してるけれど、これは子供たちの葛藤の物語。


人それぞれの選択には、人それぞれに正解がある。互いに思いのたけをぶつけあって、なおを手を取り合える関係を最後に築けたこの親子は幸せだったのかもしれない。