今日も徒然、中洲日記

ほどほどに映画が好き。ほどほどに食べることが好き。日々気づいた事を綴ります。


普段、自分から進んで邦画を観ることはほとんど無い私。邦画とラブストーリー(たとえ洋画でも…汗)は試写会の申し込みもあまりしない。


その私が、ラブストーリーの「光をくれた人」と邦画の「光」の試写会にちょっと話題だからと申し込み、同じ時期に当選するというのはなんたる皮肉(汗)その一方で、観たかった映画はあちこち申し込んでもカスリもしないで逃してしまった(涙)


「光をくれた人」については、既に日記に感想をアップしたけれど、主人公のエゴが招いた自業自得としか思えず、私には共感もできず、正直後味が悪かった。「最愛の子」を観た時の感覚に似ていた。


同じ「光」をタイトルに持つ映画。さて、本作はどうだろうと試写を待っていた。監督は河瀬直美さん。私は「あん」しか観たことはない。ドリアン助川さんの原作を読む機会があって、一晩で読めてしまうほどの分量ではあるけれど、いろんな思いがいっぱい詰まった小説だった。その感覚が映画を観ても変わらずに感じられた珍しい作品だった。


前にも日記のどこかに書いたけど、小説と映画では同じ作品でも泣けるところが違うという。でも、私にはそれが重なる作品がある。「マディソン郡の橋」と「半落ち」。。。「あん」は泣くほどのことは無かったが、胸に迫る場面は同じ場所だった。


それまで河瀬直美さんという監督は特に気にも留めてなかったけど、あの時の感覚でちょっと気になる監督になった。


今回はカンヌのコンペティション部門への出品が決まったそうで、そのお知らせと送り出しを兼ねた舞台挨拶付きの試写会だった。監督、主演の永瀬正敏氏の思いをたっぷり聞けた。おかげで終バスに乗り損ねて大変な思いをしたけど(涙)


大切なものを失っていく人の苛立ち、悲しさ、諦め、いろんな思いが重なっていく。タイトルに込められた思いを考えると。。。だけど、人はまたそこから立ち上がることが出来る。探される側としてでなく、自分の足で探すことができる。


主人公はかつては名を馳せたカメラマン。彼は映画の音声ガイド製作のアドバイザーとして、ガイド製作側の人たちと意見交換の場に赴く。


そこで出会ったのは、アドバイザーである視覚障害を持つ人たちが映画を楽しむための音声ガイドのセリフを振る若い女性。


映画の場面やセリフを邪魔することなく、スクリーンの状況を伝えるため、説明過多ではいけないし、説明不足でも成り立たない、とても難しい作業に取り組んでいる女性だ。


時にアドバイザーたちの感想は辛辣だ。「してあげている」という気持ちが少しでも彼女のアテるセリフに見え隠れするとズバリと指摘されてしまう。


アドバイザーの人たちは、確かに情景は見えないけれど、でも、そこにガイドの主観が加味された説明はされたくない。むしろ、過剰な説明はアドバイザーたちの楽しみを阻害することになる。見えないからこその彼らの想像力は私たちが考える以上に豊かであるということ。そこを知らないと的確な音声ガイドはできない。


視覚のほんの僅かな1点に光を見ていたカメラマンに、とうとうその僅かな視力さえ奪われる日がやってくる。


その絶望と恐怖を側で見ていた音声ガイドの女性は彼を受け止める。彼が自分の足で彼女のところまでやってくるのを待つのだ。


日頃楽しみにしている映画館のスケジュールチェック。時々「音声ガイド付き」の表示を見ることがある。テレビでは「副音声」で音声ガイドを流している。家のテレビでなく、映画館で観ること。それは外へ足を踏み出すということ。それらをサポートする世界があるということ。でも、それはけして、こちらからやってあげていることでなく、互いに歩み寄った結果として出会う場所だということ。


ことさら、感動的に歌い上げてるわけでなく、たとえ視覚障害があっても、それは何の妨げにもならない、ただ越えるべきものが少し多いだけの心が近づいてくラブストーリーだった。


そう言えば、登場人物のアップが多用されてたと思う。河瀬直美監督はアップを多用する人なのかな?主人公と音声ガイドの女性が夕陽を見てるシーンなんて、夕陽はそっちのけで2人のアップばかりだった。。。


さらにそう言えば。舞台挨拶で登場した神野三鈴さん、本当にお綺麗でした。どこのモデルさんが出てきたのかと思った。声を聞いて(あの独特の可愛らしい声)、あぁ、神野さんだぁと。。。


それでは、カンヌへの登壇、楽しみに。。。