今日も徒然、中洲日記

ほどほどに映画が好き。ほどほどに食べることが好き。日々気づいた事を綴ります。

女の一生


岩波ホールで上映中の「女の一生」。モーパッサン原作の小説は、名前だけは知っている、タイトルだけは知っているレベル(汗)


昔、受験の時に内外の「名作」と著者名を覚えたでしょ?その時に多分覚えたくらいで、内容も何も知らなかった。


そんな状態なのに、なぜ観る気になったかと言えば、岩波ホール主催の「映画ミニ講座」に参加したから、当日は岩波ホールの支配人を司会に光文社の超新訳文庫で「女の一生」の翻訳を手がけた方のトークショー


「エキプ・ド・シネマ会員」限定の講座で、せっかくお話を聞くなら、映画も観ておこうと。なお、講座については別の機会に書きます。


主人公はジャンヌという女性。彼女の来し方を画く。お城みたいな家に住んでるけど、彼女のお父上は「男爵」という階級で、当時としては貴族の中でもさほど上級ではない。だから、自身で働かないと維持できない。


お父上が率先して敷地の土を耕し、作物を育てる。冒頭のシーンで、父に倣い、ジャガイモの苗を植え、水やりをする主人公。長いドレスの裾を土と水にさらしながら、育てる喜びに触れている。


でも、奥の苗に水やりをする彼女は手前の苗など見向きもせず、踏みつけて行く。この時の彼女の足下をジッと追うカメラ。何かを暗示してるのか。。。こんなヤツに土いじりなど出来っこないし、物を育てる、人を育む事など出来ないと感じてしまう。自分の行為しか見えない。あくまでも、自分の「今」だけ。


観る前に散々聞かされたジャンヌの波瀾万丈の人生。これからいくつもの悲しみに遭遇するだろうが、この最初のシーンが強く印象に残り、どんなに不幸でも同情しないし、共感出来ないだろうと予測できる。


そしたら、急に睡魔に。。。(汗)


さらに睡魔に襲われる原因は、彼女の「今」の不幸せの上にかつての「幸せ」な時を回想として挟むので、行きつ戻りつの運びに混乱をきたす。


腹に黒い野心と欲望を隠して、婿養子に入り込んだ夫の不貞に悩む辺りから、眠気も追い払うことが出来た。行きつ戻りつに慣れてきたのかも(汗)


夫の不貞に悩むけど、何か解決のために自ら手を下そうとは思わない。結局、どこまでも「お嬢様」の主人公。


階級的にはさほど上級ではないにもかかわらず、何不自由なく暮らせたのはお父上のおかげ。多くの農園を切り盛りし、成功を収めていたから。それが、彼女には父親の努力と苦労の結果だと認識出来なかったのだろう。あって当たり前のものだと命の底から思い込んでいたように感じる。


自分が不幸に見舞われるのは誰かのせいであって、自分だけが不幸になる理不尽に悩む。現代では考えられない女性。おそらく、イライラする人は多いと思う。でも、ある階級に育った女性はこんな風に生きるしかなかった時代なのかも。。。


多くの裏切りに傷つき、多くの物を失い、最後には住む屋敷さえ追われる。一文無しになっても、その現実を受け容れられない。可哀想な人生だ。それでも、生き続ける。


この作品を撮ったブリゼ監督の作品「母の身終い」を観たことがあるが、そこには自分の人生の終い方に強い意思を持った母親が画かれていた。それとは同じ女性でも、対極ある主人公。


確かにこんな境遇になっても、生きている彼女を「強い」と思う人もいるかもしれない。でも、私はちょっと違う。強いから生きてるのではなく、現実を受け止められないから生かされているんだと。自分の人生を自分で生きてないから。


なんとも悲しい人生だ。


ラスト、金をせびる時だけ手紙を寄越してきた息子の苦境を聞き、主人公の生活を支えているロザリが現状を確かめに行く。帰ってきた彼女の腕の中に息子の娘が眠っている。


かつて、ロザリさえも主人公を裏切り、彼女の下を去った。溺愛の末、夢を追いかけた息子も寄りつかなくなった。


そんな彼女は今度こそ幸せな時を生きられるのか。「人生、それほど悪くない」とロザリの最後の一言。多くの不幸と引き換えにした孫娘の登場が今度こそ彼女が真の人生を歩むきっかけとなるのか。


スクリーンのサイズが横長でなく、昔のテレビのような正方形に近いサイズだった。これだとアップはよりアップに感じ、人の表情が強調される。グザヴィエ・ドラン監督の「Mammy」がほぼ正方形だった。あれも、表情が大写しになる映画だったな。。。そこをより強調したかったのかも。


原作知ってるとより理解しやすいかと。さらには睡眠不足でない時にご観賞を。イビキかいてる人いたし。。。(笑)