8月6日公開の「ヒマラヤ 運命の山」を観てきた。
原作は既に読み、その後のナンガ・パルバートの単独行の本も読んでたので、内容的にはバッチリ対応出来た(^_^)v
映画だけだと、当時主流だった極地法の手段をとり、遠征隊を率いた隊長のナンガ・パルバートにかける特別な思い、登頂後にナンガ・パルバートを横断する形で下山したメスナーの苦境と生還の軌跡は、ちょっとはしょった感を残すと思う。
また、面白いことに、原作でメスナー本人が遭難死した弟に関して述べていない感情まで、映画では描かれている。
特に、ナンガ・パルバートの頂上を目前にして、天候次第で、頂上への登攀を決定することになった場面から…
ベースキャンプからは「天候悪化」のサインが…
「天候悪化」の場合は大勢で登頂という無理をせず、撤退。最終キャンプにいる3人のうち、弟ギュンターと体調不良の隊員の2名は下山用のザイルの確保を、その作業の間に兄ラインホルトが単独・軽装で頂上を目指す。
そういう取り決めだった。
しかし、ザイルの固定ばかりに駆り出されることに嫌気がさしたギュンターはザイルが凝ったことを理由に約束を無視して、兄同様軽装のまま、頂上を目指す。
ギュンターは、遠征隊員のリーダー格だった兄に比べれば、登山経験も乏しく、兄への対抗意識で頑張ってきた節がある。
ギュンターは兄に追い付き、一緒に下山すれば、全て予定通りに事が済むと思っていたらしい…
弟より経験があるとは言え、ラインホルトも8000m峰は初めての経験だった。頂上手前で、厳しい山の天候に悪戦苦闘していた。
そこに弟がやってくる。
原作では、ギュンターの登場に驚きはするものの、弟の置かれた立場を考えれば、登ってくる気持ちも分かり、すんなりと受け入れる…ラインホルト自身が書いた原作なのだから、その時の感情に間違いはないだろう。
ところが、映画では…
兄に追い付くために相当なハイピッチで登攀し、しかも、偵察に近い登攀だった兄にならい、全くの軽装備でやってきたことに対して、驚くだけでなく、下山用のザイルの確保という割り振られた「仕事」を投げうってきたことに怒りを露にする。結局は受け入れるんだけど。
監督の立場で、ギュンターの遭難死は、まずギュンターの命令違反に端を発するものであるという強烈な意思の明示だと思う。
ラインホルト側に立つわけでなく、遠征隊長側に立つわけでもない監督の冷静な視点。
事実を映画化する時、「結果」については変えようがないが、そこに至るまでの道筋には新たな解釈が登場しても良いだろう。
そういう意味では、この映画は監督の描き方の方が、観る側の我々には説得力がある。
大人数による大遠征隊にはルールがつきまとう。まぁ少人数だって、世間的ルールは無視出来ないし、何をやっても良いわけじゃない。
「自由度」の問題と登山家の個人的資質…
自己責任としての登山…
「自由度」を望んだギュンターのとった行動は、遠征隊には受け入れられないことではあったろうが、これ以後、生還したラインホルトが単独を主とするアルパイン・スタイルの道を進むきっかけになった登山行であった。
先日読んだ「凍」の山野井夫妻は共にアルパイン・スタイルをとる。
今もなお、アラスカ・マッキンリーに眠る植村直巳さんも大遠征隊を離れ、単独行を主としていく。
どちらも登山家の道。
ラインホルトの生き様を描いたものではあるが、ラインホルト寄りの映画ではないと思う。
でも。。。
ドイツ本国では、遠征隊側の遺族(映画に登場する主だった人物は故人が多い…)が映画での自分の家族の描き方に不満を抱き、問題になっているという。
ナンガ・パルバート行を巡る訴訟など数々抱えるラインホルトにとって、騒ぎが1つくらい増えてもさしたることもないのだろう。
映画公開に先駆け、プロモーションに来日した彼の肩書きは、登山家だけではないらしい。
これだけのバイタリティーはどこから来るのか…
まぁ、そんな人だから、あの苦境の中を1人で下山し、言葉の通じない麓の村々を生き抜いてきたんだろう。
世界に14座ある8000m峰を彼全て踏破した。
遠征隊に属さず、何度も失敗を重ね、やり抜いた。
ある意味、スーパーマンだな♪
こんな鉄人の映画を観にいきませんか?結果的には鉄人のようだけど、恐怖と闘い、痛みと闘って手に入れたものだ。
「山」の映画は、本当に地味だけど、あの壮大な山の姿をスクリーンで観るだけでも価値があると思う。
素晴らしかった、ナンガ・パルバート!!
写真が美しくて、珍しく購入したパンフの表紙の写真を添付しました。横向きにならないかな…(汗)
また、場内の年齢層は高く、これも「山の映画」らしい。あの小栗旬君の「岳」でさえ、高齢の方々がたくさん足を運んでいたもの。