今日も徒然、中洲日記

ほどほどに映画が好き。ほどほどに食べることが好き。日々気づいた事を綴ります。

太陽を曳く馬


前回、と言っても数年前だが、手に取りながら、あまりに難解で上巻だけを息を切らして読んだものの、とても下巻に手をつけられなかった小説を今度はしっかり読み直すことにした。


「太陽を曳く馬(上・下)」高村薫(新潮社)


以下、感想。

























数年経っていようとも、上巻については読み直しでもあるので、難解とは言え、十分に考えながら読み進めることが出来た。


さらに今回功を奏したのは、直前に「新リア王」を読んでいたからだ。


かつて、上巻を読んだ時は久しぶりの「合田雄一郎」物ということで、3部作の第3部であることも知らずに飛びついたのだ。


その点、今回は3部作を順に読んで辿りついたので、登場人物たちの背景について、少しは思い至ることがあった。


「新リア王」では主人公の福澤彰之と語り合う実父福澤栄。彼ら父子が語り合った津軽の草庵で、栄は、時間的には小説の終わった直後に彰之の元で急死したのだ。


亡くなる直前に、東京で餓死した女性の身元確認のために電話を入れたのが、当時北沢署勤務の合田雄一郎。その電話に出たのが、福澤栄だった。


現職国会議員の行方不明の顛末と失踪先での突然の死。警察関係者で死の直前の生の声を聞いたのが合田雄一郎だということで、彼自身も福澤家の人々に関わることになった。


そう言った、小説の中では語られなかった背景を知ると知らないとでは、やはり全然違うのだ。


今回はその点をクリア出来ていたので、上巻については特に難解にも感じることはなく、淡々と読み進めることは出来た。


しかし、実際の物語の端緒となる雲水の青年の交通事故の経緯を調べていく下巻は、当事者が雲水という宗教者であること、関係者がそれぞれの宗教的見地をもって語ることで、まるで分からない世界の話を様々な方向から聞かされている形になり、難解至極。


そこで、話の展開の大筋が理解できれば良いと決めて、内容、つまり雲水たちの語る意味合いについてまで理解しなくても良いのだと切り捨てて読んでいった。


それでも、合田雄一郎が雲水たちや住職に事情を聞き、彼らが彼らの言葉で語る行はもう読むスピードもガクンと落ち、1度開く毎に数ページしか読み進められないという停滞(汗)ぶり。


それでも、なんとか読み切って思うことは、人間はなんと不確かな物かということ。


その存在も、その思いも…


その不確かな自分のままで、不確かな日々を送ることに何の疑問も持たず生きながらえているのだと。


誰も捉えられる確実な物とはいったい何なのか。


本来、誰もが自分の尺度で生きていながらも、他方で多くのことは他に依存している。 自分と他者とそれで全部ではなくて、それでも分からない世界はあるのだが、それを分からないままにして生きることが普通だという私たちの世界。


結局、雲水の青年の交通事故については、自殺なのか事故なのか、明確な判断は下されず、あくまで心証のところで小説は語るのを止める。


そして、彼の死について早くから1つの結論を出していた師匠の福澤彰之は、息子の刑死を受けて捜査陣の手の及ばないところに旅に出る。


人の心って何だろう。人は何をもって生きるのだろうと…


警察小説の登場人物としてその立場を確立した感のある合田雄一郎が、刑事捜査ではなく、立件可能かどうかの下捜査という少し毛色の違う立場で登場する本作。


福澤彰之と再び出会った3年前、合田雄一郎は彰之の息子・秋道が起こした殺人事件の担当として、強行犯係の係長の職にあったが、今回は特殊犯係の係長なのだ。事件へのアプローチが違う。


この立ち位置の変化が次作「冷血」に繋がる。


「冷血」はもう先に読んでしまったが、あぁなるほどと、本作を読んだ今になって納得出来る彼の姿を思い出す。