今日も徒然、中洲日記

ほどほどに映画が好き。ほどほどに食べることが好き。日々気づいた事を綴ります。

こどもしょくどう


エンドロールのバックに流れる歌、「食べることは命…」と登場人物でもある小さな2人の女の子が歌っている。


その食べることを通して描く子供の貧困がテーマと言えるのかな。子供たちをめぐる環境について描いている。


主人公の少年がたまたま大衆食堂を営む両親に育てられているから、食べることで人と繋がっていることを知らず知らずに理解している。


だから、母親が恋人と遊び回っていて育児放棄気味の同級生とは毎日のように夕飯を共にする。両親は昔から知っている息子の友達の苦境を知り、黙って手を差しのべる。


以前からの知り合いだから、手を差しのべることにそれほど躊躇は無かった両親だが、橋の下で、車で生活しているという少女を連れ帰ってきた時には、さすがに困惑する。


どう接していくべきなのか。本来なら大人の庇護下にあるべき年齢の子供が毎日同じ服を着たままで、腹を空かせている。そんな現場に出くわしたら、自分はどうするだろうかと考えてしまった。


両親が食堂を営んでいたから、主人公は両親のところに連れていけばなんとかしてくれるという思いがあったのだろう。片方の主人公である車上生活をしている少女とは正反対の暖かな信頼で結ばれている。


そりゃあ、お金があれば、何でもできる。でも、こうした暖かさはお金では買えない。でも、お金が無ければ、生きていけない。でも、お金が全てではない。。。


貧困の問題については、たとえ手を差しのべたとしても、個人として出来ることは限られている。生半可な思いつきや同情だけでは、かえって不幸を招く結果になる。


制度としての救済と良き隣人としての繋がりが、バランスよく、気持ちよく為されてこそ、相手の立場に立った支援となるのだろう。


少女たち姉妹が警察に保護され、児童相談所に引率されていく姿を主人公の母親はしっかり見ておけと言った。


子供たちは子供たちで必死に考え、訴えていたのだろうが、大人にはなかなか伝わらない。子供の思いだけで突っ走っても良い結果にはならないということを母親は言いたかったのかもしれない。


また、その逆で大人の事情など子供の目線では理解できない。この映画は子供たちの視点で描かれている。なぜ母親がいないのか、なぜ車で暮らすのか、そして、なぜ父親は姿を消したのかについてなんら説明が無いのはそうした理由だろう。


大人なら経験上ある程度想像できることも子供たちには考えも及ばない。子供たちには理由など分からないからだ。そうした毎日を送るうちに追いつめられていく。助けを必要としている自分に気づかない。助けを求める声を上げることを知らない。助けを求めて良いのだということを知らない。


少女たちとの出会いを通して、主人公は成長する。勇気を持つこと、声を上げることを知る。そして、子供たちの必死の叫びに触れ、両親は「こどもしょくどう」を始める。


子供にだって、意地はある。手助けを受けることを施しと捉えて屈辱感を抱くことだってある。それでも、生きていくために食べることを選択する。そこでの出会いがまた彼ら彼女らを救っていく道に繋がっていくのなら…という微かな希望の見えるラスト。


子供たちはみな熱演で、一人前の役者として、しっかりと存在感を示していた。だからこそ、観ている大人たちが涙を誘われたのだ。


日中の上映回だったから、仕方ないのかもしれないが、それにしても高齢の観客が多かった。私でさえ、若い方だった。岩波ホールは元々、高齢化率高いけど、それでも、ちらほら若手を見かけることもあるのだ。ところが、今回は違った。


本作をもっと子育て世代の人たちに観てほしいと思った。