今日も徒然、中洲日記

ほどほどに映画が好き。ほどほどに食べることが好き。日々気づいた事を綴ります。

パブリック 図書館の奇跡


久しぶりの映画館。前から観たかったけど、コロナ感染の再拡大で、映画館も簡単には訪ねる勇気が湧かなくなってきた。自分1人ではない、この世の繋がり。自分とまわりと家族と友人と…考え始めるとなかなか一歩が出ない。


そんな中、なぜ劇場へ赴いたかと言うと、遅い夏休みが始まり、ドラえもんのび太がテレビで映画館の安全性をCMし、8/1の映画ファーストデーには満席になるスクリーンも登場したことが背中を押した。前後左右を1席空けて販売されるパターンはしっかり根付き、満席と言っても、定員の半分ではあるけれど、10人くらいで観るのとはワケが違う。


映画館の「新しい日常」が少しずつ進み始めた印象だ。そして、ちょっと出かけるのに敬遠しがちな新宿、渋谷でなく、TOHOシネマズ日本橋で遅ればせながら公開が始まったことがなにより。TOHOシネマズでは上映間隔を30分空けている。そして、スクリーンの入口前に肘掛け用の消毒液とペーパータオルが提供されている。


その日の初回上映でないかぎり、一々消毒もしないだろうが、こうして、利用者向けに準備されているのはなによりだ。ホントはヒュートラ有楽町と迷ったけど、ヒュートラの上映間隔は15分。その間に前の回の観客が退場し、場内チェックをした後、次の回の観客が入場する。これを15分間でって、コロナ以前と何ら変わりがない。それだけ、感染対策には自信があるのかもしれないが…


どんなに観たい映画でも劇場側の運営に納得がいかなければ、やはり足は遠ざかる。そういう時代になったのだと思う。


エジソンズ・ゲーム」を鑑賞し、TOHOシネマズの感染対策が目に見える形で納得がいったので、TOHOシネマズ日本橋で公開されるのを知り、迷わず日本橋へ出向いた。


さて、映画の内容は…「パブリック」という言葉の意味を改めて考えさせられた。日本の図書館、各自治体で運営する地元の図書館には確かにホームレスに近いおじさんやおばさんが朝から閲覧スペースで新聞や雑誌を読んでいる。特に夏や雨の日は座る場所も無いほど混んでいる。しかし、彼らは主張することは無いし、静かに場所を占めるだけ。


1度、明らかに汚れて風呂に入っていない状態のおじさんが入ってきたことがあったが、やんわりと外に連れ出され、なにやらスタッフから諭されていた。それ以後、地元図書館に来るホームレスらしい人たちはそれなりに小綺麗にしてやってくる。


お互いに気持ちよく利用できること。それが第一だと図書館の入口に掲示されている。だから、ルールを守り、他の利用者に迷惑をかけないことを要求されている。


劇中、様々な人がカウンターにやって来て、自分の要望を伝え、それに適うサービスがあるか尋ねるシーンがあった。「原寸大の地球儀を貸して」という若い女性。けして、ふざけているのでもなく、スタッフをからかっているのでもなく、本気で探している風の女性。それに対しても丁寧に対応し、答えるスタッフ。地元の図書館なら、どうだろう。すぐに警備担当が呼ばれ、追い払われるに違いない。


区でなく、都や国の図書館なら、さらに「公共」という意味が強くなるが、どうだろう。


図書館の持つ役割が全く違う国のお話だ。以前、岩波ホールで上映し、話題になった「ニューヨーク公共図書館」。こちらはドキュメンタリー映画で、図書館の幅広い職務や役割を知らしめていたらしい。残念ながら、予告は何度も観たのだけど、予定が合わず、鑑賞が叶わなかった。


寒い冬の夜、行き場の無いホームレス達に一夜の宿を貸してほしいという願い。そのために閉館時間を過ぎても退室しないホームレス達。事情を知らない警察やマスコミは立てこもり事件発生だと大騒ぎだ。


少しずつ、彼らの心情を理解する人が増えてはいくけれど、それで全てが変わる訳でもない。事件解決のために強行突入を選択する警察に対して、ホームレス達が採った手段。それは日中、もうどうしようも無くなったホームレスが最後に選んだ手段を真似るものだった。


強行突入による流血のラストではなく、いきり立っている警察を煙に巻く驚くラスト。少し、ファンタジーの色が濃くなってしまったが、それでも、彼らの思いはしっかりと声になった。


いろんな意味で、自分1人では無い…ということを考えさせる映画だった。


ちなみに、スクリーンはほぼ半分ほどの埋まり具合。座席を半分にしてのほぼ半分だから、普段のレデースデーの日中くらいの「入り」。少しずつ、人は戻ってきてはいる。ただし、入口でペーパータオルに消毒液を含ませて肘掛けを拭いていたの私ともう1人だけだった。