今日も徒然、中洲日記

ほどほどに映画が好き。ほどほどに食べることが好き。日々気づいた事を綴ります。

アマンダと僕


シネスイッチ銀座にて鑑賞。1度公開終了後、1週間後くらいに1日1回の上映が復活。おかげで劇場鑑賞が叶った。


良い映画だった。人の痛みを知る人達が、痛みを抱えた人達に静かにそっと寄り添うストーリー。


地味だけど、とても丁寧に作られた良作だ。


舞台はフランス。この国は、ある日突然愛する人を失う理由に、病気や事故、自然災害だけでなく、テロが含まれているのだと強く感じた。


確かにここ数年、フランスで起きたテロ事件が何度か日本でも報道された。日本人旅行客が多く訪れるフランスの町。憧れの美しい町には今や暗い影も落ちる。


アマンダの母はシングル・マザーで、高校の英語教師をしながら、娘との時間を大切にしている。仕事も充実し、恋人もできた。アマンダの叔父に当たる弟は、未だ定職も就かず、その日暮らしのようだが、たまたま知り合ったアパートの大家に頼まれ、住み込みで管理人のような仕事をし、昔からバイトのように時折請け負っていた公園の枝打ちの仕事にも出かける。そして、忙しい姉に代わって、時折アマンダとも過ごす。


姉弟の仲が良いから、成り立つ関係だ。ある意味、そんな2人に囲まれ、アマンダは幸せなのかもしれないと思い始めた時、その日はやって来る。


公園でお弁当を囲んでいた人や散歩に来た人、誰もが楽しい時を過ごしていたその場所が凶行の場になった。


映画後半は、事件や犯人のその後は描かれず、アマンダと「僕」が現実を受け入れるまでを描く。まだ7歳のアマンダに母親の突然の不在を理解するのは難しい。大人だって、テロの現場に居合わせた人達は、その恐怖からなかなか抜け出せない。全てが停滞し、思考停止になってしまうが、残されたアマンダの今後を検討するため、役所のサポートを受けながら、事態は動き始める。


昔、エルビス・プレスリー全盛の頃、コンサート・ホールの外でいつまでも出待ちするファンを帰路につかせるため、「プレスリーは建物を出た」と警備員は放送する。その言葉は転じて、「全て終わった」という意味に使われるようになった。


母が生前残してくれた観戦チケットを持って訪れたウインブルドンセンターコート。片方の選手が、先に3ポイント先行され、追い詰められる。それを観ていたアマンダは、母から教わった最後の言葉を思い出す。「プレスリーは建物を出た」。もうこの選手は終わってしまう…と。


この時突然アマンダは泣き始める。涙は止まらず、どんどんと泣き方も激しくなっていく。夜中にうなされて、泣き出したことはあったが、こんなにもただ泣くようなことは無かった。


どこかでしっかり泣いておかないとこれからの生活でバランスを崩す。泣くべき時に泣けないのは、心が閉じているのだと聞いたことがある。


アマンダは賢い子だから、周りの大人たちが皆、アマンダのために優しくそっと寄り添ってくれていることに気づいているだろう。だから、彼女なりに頑張ってきたのだ。なんといじらしいこと。


テニス観戦中、追い詰められたテニス選手の立場が「おしまい」に見え、自分も全て終わったと感じてしまったのだろう。けれど、ギリギリのところでその選手は頑張る!それは、「おしまい」に怯えるアマンダに「まだ、終わっていない」とメッセージを届けてくれてるかのようだ。


なぜ、プレスリー?って思ったけど、ラストでこういう風に繋がっていくのね。


静かに涙が頬を伝う映画だった。