今日も徒然、中洲日記

ほどほどに映画が好き。ほどほどに食べることが好き。日々気づいた事を綴ります。

第三夫人と髪飾り


久しぶりの渋谷・映画美学校での試写。今回主催者の決まりで身分証明提示による入場。よみうりホールとかの緩い試写とはちょっと違う(汗)。


舞台はベトナム。まだまだあどけなさの残る14歳の少女が小舟に揺られてやって来たのは、大きな家を構えた裕福な家庭の男の元。


少女は、男の第三夫人としてやって来た。親同士、家同士で決めた結婚。彼女にはまだ人を好きになるという感情すら理解できていないのではなかろうか。


小舟のシーンから結婚式、初夜までセリフが無い。そして、その初夜を迎えるにあたっては土地の慣わしもあるようで、そのシーンから次の蚕がウニョウニョする無音のシーン(何かをイメージ、暗示してるんだろうけどね…)まで、正直吐き気をもよおしそうになった。


官能的というよりちょっと薄気味悪い。トドメに私の苦手なお蚕様の登場だもの。


少女は初夜の後、出血があったかどうか、第一夫人に確認される。こんな屈辱的な仕打ちをするなんて…と思ったが、それが嫉妬や嫌がらせによるものではなく、あくまでもそういう慣わしなのだ。家長を支えて一家を切り盛りする第一夫人、それを一歩下がって支える第二夫人…という具合。


現代日本のやりたいことをやりたいようにやって、言いたいことを言いたいままに言い放つ女性たちからしたら、全くの異世界だ。


少女がこのまま順調に妊娠しても、その子が男の子でなければ、正式に「妻」とは認められない。それは夫にだけでなく、家族や使用人にまでそう判断される。3人の子がありながら、3人とも娘の第二夫人は、娘たちへ物を買い与えることも義父に頼み込まねばならず、第一夫人の一人息子に何事も優先されてしまう。


そんな窮屈な人間関係を黙って見ている第三夫人の少女。無事、妊娠はするが、その子が男の子でなければどうしようかと不安に追い詰められていく。


自分を娘のように慈しんでくれる第二夫人の秘密を目にした時、少女の心に芽生えた感情は何だったのだろう。自分が本当に愛するものに気づいたのか。


第一夫人の息子が嫁をとることになった時、事件は起きる。運命を受け入れるのか、運命に抗うのか…


第一夫人の息子が運命に抗おうと足搔いた結果、嫁にきた第三夫人と同じように若い少女は、家名に泥を塗ったと実の父親に罵られ、行き場を失い、命を絶った。死化粧を施された彼女の姿は、第三夫人である自分の姿だったかもしれないのだ。


女性たちは限られた場所でしか生きられない時代だったのか…彼女たちの感情より家長であるたった1人の男の意思が全てに優先される社会。その中で男たちに求められた物を差し出せるかどうかで決まってくる彼女たちの幸せ。


自由な時代に自由な発想が許される場所で生を受けて、本当に良かったと思った。彼女たちを取り巻く美しい風景がかすかな救いとなって心に届く。


第三夫人の少女は、女の子を産んだことで運命を受け入れようと決意したのだろうか、それとも「妻」となれなかったことに絶望したのだろうか。最後の彼女の姿は観る側にその結論を委ねたような印象だ。


第二夫人の2番目の娘は、なかなか意思の強い女の子だ。あの髪を切る姿は運命に抗おうとする意思表示なのかな…大人の女たちへの無言の抵抗みたいな…そのやりきった感を漂わせる表情にズームして暗転。なんとも余韻の残るラスト・ショット。


今の私からしたら、哀しい女性の生き様…という映画だった。


第三夫人となった少女が嫁いできたところから、子供が生まれてくるまでの多分1年半くらいの間のお話なのだが、いろんな事が起きて、その月日はとても長く感じる。これはけして映画自体が退屈で長く感じるという意味ではなくて、それほど少女には様々なことが起こっていた…ということ。