今日も徒然、中洲日記

ほどほどに映画が好き。ほどほどに食べることが好き。日々気づいた事を綴ります。

シリアにて


久しぶりの岩波ホール。コロナ感染症の流行に伴い、映画館の休館が相次いだ。岩波ホールも緊急事態宣言を受け、しばらく休館し、既に劇場で予告編の上映がされていた何本かは公開時期を来年早々に延期した。


ぎりぎり上映に間に合った「巡礼の約束」は公開途中で中止となり、残りの上映期間を来年に延期した。


岩波ホールは素早い手の打ち方で、次々と延期を決定し、ひとまず、このまま未公開にならないことを早めに案内をされた。予告編には観たいと思った作品が多かったので、こちらも一安心。


そして、この思い切った対応の手の内がハッキリとしたのはその直後。劇場の機器の大規模な補修改善の工事が始まるそうだ。そのために9月から来年1月いっぱいは休館となる。すでに工事による休館は予定されていたことだろうから、その期間に合わせて、公開延期を早々と決断されたのだと思う。本来なら、そうコロナ騒動など無ければ、この作品の前に3本ほど公開されていたのだが、でも、明日の不安に怯えながら、来場者の少ない中で無理矢理公開されるより、ずっと良い。


それは私達鑑賞する側の都合で、けして劇場側の都合に合わせたものではないことはよく分かっているけれど…


そして、緊急事態宣言解除後、以前岩波ホールで上映した作品をテーマ立てて公開し、さながら「小さな映画祭」的な…残念ながら、既に鑑賞済みの作品もいくつかあったので、新作公開まで待ってみた。


それが本作「シリアにて」…


最近はコロナの報道ばかりで、あまり世界の紛争地域について報告がされていないが、ちょっと前までは、シリアの内戦はその非情な在り様に恐ろしい思いをしながら、ニュースを見ていた。


実際に内戦の最中にカメラを回し、ドキュメンタリー映画も多く作られているが、本作はシリアに暮らす家族の1日を追ったフィクションだ。そう、普通の人たちの1日だ。その1日がとても息が詰まり、恐怖に震える1日なのだ。


スクリーンに映し出される家族の追い詰められようは見る側にとって、とても息苦しい。この1日がどこに向かっているのか…と心が解放を求めてきた頃、家族は眠りにつき、夜が明けて朝になる。


そう、また次の1日が始まるのだ。爆撃による爆音に怯え、町を牛耳る輩に怯え、それでも、また1日が明ける。


どうしたら、この1日は終わるのか…彼らにはそれを知る術もない。ただ、身を小さくし怯えながらもやり過ごすしかない…シリアにいる人々には、これこそが日常なのだ。


なんと言えば良いのか分からなかった。ただ分かったのは、こんなシビアな状況に生きる人たちがいるのだと言うこと。そして、そこにいるのは、私達と同じ普通の家族たちなのだと言うこと。


さすが岩波ホールと言える映画だった。


最後に、現在の岩波ホールはコロナ対策を厳重に行っている。定員は60名に限っている。私は上映の30分前にチケットを購入したが、整理番号は21番。私の後からも何人かやってきたので少なくとも2/3以上は来場していたと思う。


60名定員であるから、当然席の間引きはしている。自由席制ではあるけれど、間隔を空けるため着席をしないよう注意書きが貼られた席が1席置きに。そして、驚いたのは着席可能列の前後の列は1列全て着席不可で、座面が取り外されていた。


上映開始直前に劇場に入ってきた男性は、1席置きの着席可能な席に気に入った場所が無かったのか、誰も座っていないのを良いことに着席不可の列に座ろうとした。そして、座ろうと座面に手をかけようとして、何度も手元を見直していた。座面が無いから座れない。背もたれしかないシートなのだ。


目の前で展開されたこの場面。ちょっと笑っちゃいそうだった。本作上映終了後には工事に入るため、ホールとしても思い切った手をうったものだと感心した。


トイレの手洗いにも洗面台毎に消毒ジェルが置かれており、上映間隔は1時間あり、場内の消毒をしてから開場してるそうだ。映画を愛する故、映画も鑑賞者も守る。そうした、姿勢をヒシヒシと感じた。運営する側としては相当の負担だろうけれど。


工事終了を心待ちにしています。