今日も徒然、中洲日記

ほどほどに映画が好き。ほどほどに食べることが好き。日々気づいた事を綴ります。

ラストブラックマン・イン・サンフランシスコ


サンフランシスコ…かつて、映画全盛期、カーチェイスの舞台と言えば、サンフランシスコ。海を臨む長い、長い下り坂を猛スピードで車が走り回る映像は必ずと言っていいほど、映画のワンシーンとして挿入されていた。そのくらい、サンフランシスコと言えば、カーチェイスだった。あくまでも、私にとっては…


その後、カーチェイスをより面白くする要素であった「坂」が原因で多くの事故や問題が発生し、映画撮影の許可が下りなくなったと聞いた。私が子供の頃、瞼に焼き付けた路面電車の走る坂を駆け抜けるカーチェイスは、もう観ることが無くなった。


この映画は、そのサンフランシスコが舞台だ。


昔々、自由度高く映画撮影されていたサンフランシスコの街。多くの制約が出来るということは街が変貌しているという証拠だ。映画の中でも、黒人が暮らす地域と高級住宅街となった地域とが隣接する微妙な空気漂うサンフランシスコの今が描かれていた。


主人公は家族が離散し、住む家も無く、親友モントの家に居候している黒人青年ジミー。訪問介護士として働きながら、スケボーに乗って街を走る。彼の行き先はいつも決まって、かつて家族と暮らしたビクトリア様式の家。住人の留守を狙って忍び込んでは、全く手入れをしない住人に代わって外壁の修復を試みている。自ら手入れをしなくとも知らぬ間に少しずつメンテナンスされていくのは家には良いが、住人には不気味なこと極まりない。


ジミーやモントと同世代の黒人青年たちは仕事もなく、世の不条理への不満を口にしつつ、することもなくただ町にタムロしている。そこへいくと、訪問介護士として働くジミーと魚屋で働きながら気になったものをスケッチして書き留めているモントは社会との接点を持ち続けている。


観光客が多く訪れる街、サンフランシスコ。しかし、そこに住む人々には大きな格差が生まれている。華やかな街だからこそ、その格差は広がるばかり。


かつて、親が生活のために手放した「家」にこだわるジミーの姿は自分にはどうしようもない様々なものへの苛立ちに見える。時代を感じさせる建築様式の家を祖父が建てたと信じるジミー。でも、それは家族と暮らした頃のジミーの思い出の詰まった家を家族が建てたと信じたいという彼の心がそう思わせていた。


モントは真実をジミーに伝え、自分の足で立ち上がることを訴える。真実を認めた傷心のジミーをいつもと変わらず静かに迎えるモント。青春映画なんて言葉では語るのはイヤだけど、でも、彼らの友情ややり取りを思えば、まさにそうなんだろう。


主人公が黒人青年だということで、物語の背景に人種問題などから起こる格差などが色濃く反映してる映画なのかと思ったが、確かに底辺にそれは存在するけど、主眼は子供の頃の幸せな「時」とその時住んでいた「家」とが結びついて心に刻まれ、そこにこだわることで必死に生きてこられた青年の日々を追うもの。


そこにこだわったから生きてこられた。でも、こだわり続けることで、行き止まりに近づいてしまった。


自身の成長と街の変貌。遺産問題で家を手放すことになった住人はしばらく家を空ける。親族間の問題が解決するまで、家は売りに出すこともできず、空き家になる。ジミーの目の前に考えもしなかったチャンスが訪れる。ジミーはモントを誘って忍び込み、室内の修復をしながら、不法に暮らす。かつては黒人たちが暮らした街。再開発に伴って街は変貌し、今では高級住宅街に変わり果てた。その日暮らしのジミーにその家を取り戻す財力は無い。八方塞がりの中で訪れたチャンス。しかし、そこで現実を痛感する。そこは彼の思い続けた「家」ではないと。


生まれ故郷、サンフランシスコを出ることはけして逃げたことにはならないと諭す母親もこの街を捨てた人間だ。ジミーはある朝、モントに置き手紙を残し、立ち去る。彼の「家」は見つかるだろうか。


青春映画といえる作品ながら、ジワジワくる友情の物語なので、途中、仲間が思わぬ喧嘩で死んでしまうのだが、その辺りも事実を伝えるだけで、全編通して起伏は少ない。舞台は坂の街だけど…ぼんやり観てると寝落ちの坂を転げ落ちる可能性は大いにある。良い映画だけど(汗)。