今日も徒然、中洲日記

ほどほどに映画が好き。ほどほどに食べることが好き。日々気づいた事を綴ります。

僕たちは希望という名の列車に乗った


こういう映画を秀作と言うんだろうなと思える映画。実話ベースだからこそ、胸に迫るものがある。


あの場所であの時代にこんな声を高校生の子どもたちがあげたのだと。変なドラマよりずっとドラマチックな展開だ。


第二次大戦後、ドイツは分断され、ナチの嵐に苦しんだドイツ国民のその後は大きく道が別れた。ソ連の影響下に置かれた東ドイツがお話の舞台。当時はまだベルリンの壁は建設されておらず、東と西のベルリンは列車で行き来が出来た。


しかし、西側に向かう列車に乗り込む際には身分証の提示を求められ、その理由も軍人によって問いただされた。なぜなら、国を治めるのに理想と考える社会主義を標榜する東ドイツにとって、西側はナチの残党が蔓延る危険な場所だから。


戦死して西側に埋葬された祖父を持つ高校生クルトは友人のテオと共に、祖父の墓参りを理由に列車に乗り込む。だが、それだけが彼らの目的ではない。人々が生き生きと暮らすベルリンで彼らは映画を観る。劇映画の合間に見るニュース映画こそ、彼らに真実の世界の今を伝えるものだ。


ニュース映画では、ハンガリーで起きた自由を求める民衆のデモを報じていた。自分たちの知らない世界での出来事に大きく心を惹かれる彼らはクラスメートの叔父のところに出向き、こつそりと西側のラジオ放送を聞く。


その放送でハンガリーの暴動制圧のために、有名なサッカー代表選手が亡くなったことを知る。そして、彼らはクラスに呼びかけ、自由を求めて戦い、命を落としたハンガリーの人々に黙祷を捧げた。


この黙祷がその後の彼らの人生を大きく変えることになっていく。


若い高校生たちの純粋な思いが、当時の東ドイツには危険な思想に繋がるものとして捉えられ、その家族も巻き込み、究極の選択を求められる。


過去の過ちを二度と繰り返さない。かつてのナチによる支配を憎む人々は、その強い思いからソ連の管理を安々と受け容れたのだろうか。形こそ違えど、支配は続く。繰り返された反政府の戦いの中で、ある者は処刑され、ある者は労働者として過酷な生活を強いられた上に将来を奪われ、そして、その混乱に乗じて社会的に地位のある職務を得た者も…


そうした親世代の過去を背負った高校生たちが自分たちの意思で、自分たちの道を探そうとした。しかし、当時の東ドイツでは、それだけで反政府分子と判断される。ましてや、彼らのクラスは成績も優秀で将来の幹部への道も拓ける特別なクラスだ。そこで起きた反政府デモで死んだ民衆への黙祷なのだから、幹部たちが慌てるのも仕方がないのかもしれない。


しかし、かつてと同じように、自分たちの立場を脅かす人間に厳しい言葉を投げかけ、家族の身の安全をチラつかせながら脅していく幹部の姿は、理想的社会国家のあるべき姿なのだろうか。


理想を求めて、より過激になっていく。その過程を見るようだ。


脅され、恫喝され、様々な方向から彼らを分断させようとする大人たちの姿を見ると、彼らこそ新しい時代に生きる高校生たちの感性に怯えているように見える。


そうした脅しにも屈せず、意思を貫き通した彼らの強さはどこから来ているのかと思わずにはいられない。なぜ、彼らはこうまで強く戦えたのか。全員が団結していたとは思えない。しかし、軽はずみに首謀者を密告することもしない彼ら、それぞれの姿勢。


この高校生たちにこそ、過去の過ちや不幸を二度と繰り返さない決意の下にエリートとして育てた結果が実を結んでいるように思う。しかし、その結果に不満を抱く大人たち。なんとも皮肉な結果だ。


地味な映画ではあるけれど、強い意思持って、道を拓いた青年たちの姿は胸を打つ。じっくりと観るべき映画だ。