今日も徒然、中洲日記

ほどほどに映画が好き。ほどほどに食べることが好き。日々気づいた事を綴ります。

ピータールー マンチェスターの悲劇


マンチェスターと言えば、今の日本人にはサッカーだ。かつて、こんな理不尽な惨劇が起こった町だったとは…


オープニングはとある戦場。次々と砲撃される中を赤い軍服の青年が進軍ラッパを吹きながら進んでいる。と言っても、彼はけして自信に溢れた姿ではなく、バラバラとまばらになってしまった味方のなかを彷徨い歩いているようだ。それこそ、いつ命を落としてもおかしくないような状況なのだ。


それでも、生きて帰ることが出来た。マンチェスターの家に戻る頃には身も心もボロボロに成り果て、何を語ることもできない。


このオープニングは何を示唆しているのだろうか。


青年は落ち着くと、あちこち仕事を求めて歩くが、どこにも就職口が無い。戦後の困窮がもろに市民生活を直撃したのだ。しかし、選挙で選ばれた判事議員たちは、市民の困窮など気にもしない。それどころか、政治に異を唱える市民たちをいかにして一網打尽にしようかと考えているのだ。


戦後の混乱の中で、市民の生活は行き詰まり、明日の食べ物にも窮する日常だ。それぞれ生きるために自分の考えを表明していく。自分たちが生きやすい社会を実現するために。当時は一部の貴族たちに政治が独占されていた。これに反発した市民たちから普通選挙権を要求する市民集会やデモが頻発するようになっていた。


世界一の先進国だったイギリス。産業革命が起き、目覚ましい工業化で、どの国よりも先んじて発展したイギリス。そのイギリスにも一部の者達だけが優遇され、市民はそれを支える駒に過ぎないという時代があったのだ。


ピーターズ広場に集まって、ただ、自分たちの思いを言葉にし、明日への勇気を共有しようとした市民たち。職場の工場を開店休業状態にし、集会に訪れたのは6万人もの人たちだ。男だけではない。その家族たちも、子供たちでさえ、参加していた。


そこへ、武装した騎馬隊が乗り込んでくる。大量に押しかけた市民を現場から引き離すため命令を受けたからだ。広場はあっという間にパニック状態に陥り、市民と騎馬隊とが揉み合い、多くの死傷者が出た。


オープニングであれだけ危険な戦場を生きて還った青年が騎馬兵に一突きで殺されてしまう。イギリスのために命をかけて戦った青年を、これからの国の未来を託すべき青年をいとも簡単に殺してしまったイギリスという国。


映画では、当時のイギリス、マンチェスターでの市民の暮らしぶりと彼らの不平不満、困窮する市民生活を脱するために各地で開かれた意見集会の様子が淡々と描かれていく。


市民=不満分子と捉え、ただ、圧することしか考えない国王、さらにそれを良しとする貴族たち。


市民を淡々と描くのはともかく、国王をはじめとする当時の為政者たちの傲慢な姿勢をも淡々と描ききったことは、この映画の最大のポイントだと思う。


市民寄りの目線でドラマチックに描くことは出来ただろうが、敢えてそうはせず、市民の方も一致団結していたわけでもないことをしっかりと描いていた。


ピータールーの惨劇の「その時」までをそれぞれの立場から描いている。登場人物が多いので、途中で誰が誰だったか分からなくなりそうで、困った。おまけに155分の長尺だ。誰かに感情移入するほど、全体がドラマチックに描かれていないのだから、正直寝落ちしそうで、ツラかった。


歴史の目撃者になる…実話ベースの映画の宣伝でよく見かけるフレーズだが、まさにそんな映画だった。本当に、観客は「目撃者」として、この惨劇を目の当たりにする。そこには何の説明もない。6万の人々の高揚と全てが去った後の静寂。誰にも寄り添わない演出。これが事実だと突きつけられ、そのまま突き放された印象。


3人の青年記者が、記事にして広く訴えると決意を披歴したが、国王には、ただ不愉快な市民の行動の1つとしてしか捉えられていないところは非情な現実。そして、その言葉を褒め称える役人たちの薄汚さ。


映画の役割の1つをまた思い知る。