かなり前になるけど、評判になってると聞いて、図書館に予約して長いこと待って手にした「決壊」という小説があった。それを書いたのが、平野啓一郎さん。
ところが、長いこと待ったにもかかわらず、結局、読み切ること無く返却し、そのまんま。。。その時、読むのが難しいと感じたことを覚えている。本作はどうだろう。
以下、感想。。。
平野啓一郎さんという作家は、確かに難しい作家なんだろうなと改めて感じた。難しいことを難しいままに伝える人。
難しいことを優しく簡単に伝えることこそ大切で、そのためには高い能力が必要なのだと教わってきたが、それをご都合主義で、より簡単に端折って伝えて、ハイ、オッケーとなってるのが最近の風潮。確かにそれもどうかと思うけど、本作のなんだかやたらと回りくどくって、観念的な表現にはちょっと辟易する。
人が日々生きていく中で、深層心理に寄り添い、心の底まで徹底的に洗い出して、言葉を発することなど、ほとんど無いだろう。
心に深い傷を負った者同士が、互いに惹かれ合い、互いに支えることで、新しい一歩を踏み出す。そうやって、九州の田舎で暮らした夫婦に起きた事件に端を発する物語。
話は複雑に絡み合うので、簡単にあらすじを語れない。まず、登場人物それぞれのバックボーンにそれなりに悲しい出来事が絡みつく。
物語の語り部となる弁護士、城戸章良。彼の出自は必要なのか。彼は自分の出自をとくに意識しないまま成長し、親の勧めを受け、自ら帰化したという。
特に意識しないまま成長したにもかかわらず、いざ、社会に出る年頃になって帰化を勧めるとは、両親はそれまでの暮らしの中で相当の努力をして彼を意識しないまま成長させてきたということなのだろう。私が子供時代に暮らした町には多くの主人公の同胞たちがいた。私は通り1本挟んだところに住んでいたので、直接関わりは無かったが、学校に行けば、少なからずそれらの人が居た。クラスが彼らの存在を理由に2つに割れることは無かったけれど、子供心に不思議に思うことはいくつもあった。
出身の町を答えると、あからさまに「日本人?」と聞かれたこともあった。それも1度や2度じゃない。私は思いっきり日本人だから、そんな言われ方されても「フンッ!」とあっかんべーしてやったこともあるが、本当にそうであったら、私のような受け答えを出来るのだろうか。
当時、近所に住んでいた同級生は、自分の出自に話が及ぶと途端に顔色がかわるのだ。それで「あぁ、この子にこの話はダメなのね」と学ぶ。そして、彼らの名字から「あぁ、この子はそうなのね」と知る。
主人公は、その出自が自分にとって負い目となり、小説に登場する、名前と一緒に過去を捨てた人々への共感に繋がったのか。弁護士といえば、ただ頭が良いだけでなく、それなりの環境に育たなければ、成り得ない職業だと思っているが、そんな彼にも、人にけして悟られてはいけない負い目があって、それが人の名前を語ったまま死んだ男との共通項になったということなのか。
そういう意味で主人公の出自が必要なのだとしたら、仕方ないけれど、何かある度に登場するその彼自身の問題はなんだか鬱陶しい。話の本筋とはあまり関係無い気がして…その部分を抜いたら、もっと簡潔で直截的な物語になってたのではないかとも思う。
あくまでも、宮崎の悲しい過去を持った夫婦の話として、もっと純粋に泣けた気がするだけどなぁ。まぁ、他の小説を読んだことがないから、なんとも言いようが無いのだけど、他もこんな感じなのかなぁ。。。