今日も徒然、中洲日記

ほどほどに映画が好き。ほどほどに食べることが好き。日々気づいた事を綴ります。

金の糸


岩波ホールも閉館までカウントダウン…あと3ヶ月半。本作含め残りの上映作品はあと3つ。


本作はジョージアの映画で、日本の伝統工芸「金継ぎ」に着想を得た作品と聞いていたので、日本の伝統文化をジョージアの人たちがどう描くのか…と楽しみにしていた。


でも、それは私のかなりの勘違いだった(笑)。事前情報をほぼナシの状態で観賞する私の悪いクセ(汗)。


結局、本編の中で「金継ぎ」の作業工程すら紹介されることなく、さらには金継ぎの作品さえ登場しない!本編の中盤辺りで、主人公が孫に部屋に新しく飾るポスターを示して、「これは日本で考えられた金継ぎという作品。素晴らしい。元の作品よりずっと良い」的に語る。


金継ぎされた壺のポスター。それだけの登場。


しかし、こうした日本の伝統工芸が、主人公とどう関わるのか…


主人公と関わる中心的な登場人物はいずれも高齢で、既に若かりし過去の自分の「栄光」は遠く手の届かない場所にある。


主人公は足を悪くして、杖をつかなければ歩けない。かつては惚れた男と家の前の石畳の上でタンゴを踊った彼女はもう外を歩くことも出来ない。彼女の生活圏は室内に限られ、他者との関わりは、ベランダから外を眺めることで成立している。


その彼女の家に転がり込んで来たのは、最近認知症が進み、1人での生活に不安のある娘の夫の母親。彼女はかつてジョージアソ連だった頃、支配する側として立場を得ていた人間。町には上辺では彼女に感謝する人もいるようだけど、主人公たちからしたら、過去の栄光にしがみついてる哀れの老女にしか見えない。


そんな毎日に突然かつての恋人が主人公に電話をかけてくる。元恋人が彼女ではない女性と結婚したことで疎遠となっていた2人。男は妻を数年前に亡くし、車椅子生活になってしまった。寂しさを埋めるために主人公に連絡してきた。


1人、孫と穏やかに生きていた主人公は、彼女の過去に繋がる人物たちの突然の登場に混乱し始める。


過去と現在の自分を繋ぐもの…割れた陶器を金継ぎで修復し、割れる前の姿以上に芸術性を増す。主人公の人生を金継ぎで修復された工芸品に例えてるのだろうか。


タイトルの「金の糸(原題を訳したもの)」は金継ぎで出来る金の筋を「糸」に見立てたと思われるが、その糸はバラバラな人生のピースや過去の人間関係を繋いでいくってことなのか…


難しいなぁ。


これまでにジョージア映画は数本しか観てないんだけど、どんな映画もそこに登場する人々の日常が淡々と描かれている。けして、ドラマチックな展開があるわけではないのに、なぜか登場人物たちの姿が強く印象に残る。そんな映画ばかりだった。たまたまなのかなぁ。


岩波ホールでこそ観られる映画だと思った。閉館後、こんな映画はどこで観られるんだろう。


今現在、隣国ウクライナへのロシア侵攻がマスコミでも大きく取り上げられている。ジョージアもロシアと国境を接する。長い内戦はロシアとの戦いとも関係していたと記憶している。ジョージアも今はある程度安定しているのだろうが、他人事ではないはずだ。そうした現実の痛みや怒りをきっと皆が抱えているに違いない。


素晴らしい映画を創る文化の高い国が長い戦争で荒廃していくのは残念でならない。