劇場公開前にテレビで流れた予告編CM。いつもの阿部寛といつもの佐藤健が登場する映画なんだな…と思った。そして、その舞台は震災で疲弊した街とそこに住む人々の物語だと知った。
阿部寛はともかく、佐藤健は映画館まで足を運ぶほど好きな俳優でもないし、当然スクリーンでは観ないまま時が過ぎた。
たまたまテレビを点け、WOWOWをチェックすると映画「護られなかった者たちへ」が始まったばかりだった。少しの興味と暇な時間のおかげで最後まで視聴した。
結果、いつもの阿部寛といつもの佐藤健の映画だった。だけど、遠島けい役の倍賞美津子さんが圧倒的な存在感を見せ、原作を読んでみたいと思った。調べたら、最近よくWOWOWでドラマ化される作家、中山七里さんの著作だった。
「護られなかった者たちへ」中山七里 著(宝島社文庫)
以下、感想。。。
まず、簡単に言うと小説の方が圧倒的に良かった。そして、笘篠は阿部寛を、利根は佐藤健を感じさせなかった。キャスティング、失敗じゃない?
蓮田の林遣都もカンちゃんの清原果耶も全くイメージが合わず、原作では男性だったカンちゃんが映画では女性にすり替わり、清原果耶が演じるという不条理、さらに、映画版ではけいとカンちゃん、利根の出会いは震災を背景とするものに置き換えられ、いかにも安直すぎると思った。
むしろ、震災を理由に3人が親子のように結びついたかのような表現は被災者をバカにしてるのかと正直思った。確かに3人の生活の背景にそれは影を落としたとしても、それを理由に結びつくことは、原作とはかけ離れてしまう。時間制限のある映像作品でそれなりの説得力を持たせるための手段だとしても、いただけないと思った。
監督や脚本家は誰だろう。あとで、ちゃんと調べよう。そして、彼らは安直な作品をつくるクリエーターだとしっかり認識しておこう。
小説は、なぜカンちゃんが手を下すことになるのか、あまり多くを語らない。カンちゃん自身の言葉で理由を述べているが、それが全てではないことは知っている。最終盤のカンちゃんの言葉が登場する行まで、十分語られているからだ。
利根の服役期間とカンちゃんが成長し、学び、就職するまでの期間が重なるのだろうが、その辺りは詳細が語られないままに物語は終わった。
ここが、小説の良いところだ。語られないところは、語られたところから想像するしかない。その点、本作はそうした読み手の想像や思いがちゃんと湧くように物語が進行する。
カンちゃんが男性であったこと、震災を直接の背景としなかったこと、これがこの作品のキモだ。映画版でか細く見える清原果耶演じるカンちゃんがなぜ犯行を成し得たのか、ずっと引っかかっていた。その理由がハッキリした。この変更とキャスティングは製作上の大き過ぎるミステイクだったということだ。
しかも、映画版は仇となる福祉事務所の人たちの事件の順番が入れ替わり、最終盤で過去を詫びる場面が差し込まれる。これは大人の事情なのかな…と思わされる。
中山七里さんの著作は何度か読もうとチャレンジしたことがあるが、時間が取れなかったり、他に読みたいものがあったりで、なかなか上手く縁を結べなかった。今回は、あの映画を見た後で原作としてしっかり読むことができて、良かった。