今日も徒然、中洲日記

ほどほどに映画が好き。ほどほどに食べることが好き。日々気づいた事を綴ります。

闇に咲く花


観劇日…8/24(木)13:00、29(火)18:30
紀伊國屋サザンシアター
①8/24…上手中段前方
②8/29…下手中段後方


両日共、センター・ブロックではないため、逆手の芝居が見られた


戯曲を読んでいた時から、この言い回しは劇場で1回聞いただけでは分かりにくいな…と思っていた台詞があった。明るく元気に生きる5人のご婦人方の1人の台詞なのだが、それが妙に引っかかっていて…


1度目はそのままだったが、2度目の時は平易な言い回しに変わっていた…私の思い過ごしだろうか…


1度観ているので、大筋は頭に入っているから、健太郎の感情が湧き上がる場面のみ、2回目の観劇ではオペラグラスを数回使って、松下洸平くんの演じてる顔を見た…結果、オペラグラスを使うと確かに演者の細かい表情は追えるが、芝居全体が疎かになり、良いことではないと痛感する


今回はあらかじめ劇場ロビーに後日WOWOWで放送予定があること、DVDも発売予定があることも告知されていた。確かにカメラが入ったのは私が観劇した日ではないけれど、細かいシーンはそこで見られる。ならば、劇場では芝居全体を観て楽しまなければダメだ…そう思ったのだ


2回目は東京千穐楽の1つ前の公演日でマチネの後のソワレだった。5日前の1回目と明らかに違うのは松下洸平くんの「正気です」の台詞と佇まい。強く言い切る形で、胸を張って全てを受け容れると決意したピンと伸びた背筋に力を感じた


5日前は、様々な事態の変化と自らの思いとの葛藤に悩みながら必死で受け止め、受け容れようとする悩ましい姿を観た


どちらが本当なんだろう…きっと、それは受け手の側に託されているのだろう…


2回目に観た健太郎は自問してきた葛藤に区切りをつけた姿に見えた。その姿は確かに潔いのだろうが、私は悩み苦しみながら答えのない一歩を踏み出した5日前の健太郎にひどく打ちのめされた


芝居は生き物だ。


同じ演目を複数回観るのは初めてだ。芝居は映画と違う。映画は何度観ても同じシーンには同じ台詞と佇まい。変わるのはこちらの見方だけ。でも、芝居は違う。演者はそこにいて、今まさに演じている。これが芝居の面白さなんだろう。


1回目はスマホも鳴らず、妙な咳ばらいもなく、集中して観劇出来たが、2回目はスマホが数度鳴り、場面転換で奏でられる加藤さんのギターの時に大きな咳ばらいを何回もする輩がいた。さらに2つ隣のおばさんは上演中にバリバリと音の鳴るペットボトルを何度もバッグから引っ張り出して水を飲んでいた


電波をシャットアウトするシステムは紀伊國屋サザンシアターには無いのか?


今やちょっとしたホールにはあるものだと思っていた(汗)人の良心を拠り所とする上演形態はそろそろ考え直した方が良いのではないか…


開演前、通路をこまつ座スタッフさんが歩きながら観劇の注意を伝えていく。その中に「ペンライトのご使用はお止めください」ってのがあったぞ!!


これは何?ここは劇場よ!!ライブ会場じゃないのよ!!誰かがペンライトで応援しちゃったわけね…それ、ほとんど松下洸平くんのファン向けに言われてるってことよね?何、勘違いしてんのか(怒)


常日頃の「こまつ座」公演ではこうした事態は無かったに違いない。1日目、猛暑の中、新宿高島屋とサザンシアターとを繋ぐガラスばりの連絡通路で日を燦々と浴びて開場を待つのはイヤなので、少し早く行ってサザンシアターのロビーで待とうと思ったら、ロビーの入口自体が開場まで閉められていた…


確かにほぼ満席の状態であのロビーを開放したら大変なことになるな…


たまたま同じ考えのおばあちゃんときっちり閉じられた入口ドアの前で行きあい、少しお話をした。「いつもなら中で待てるのに…」おばあちゃんは肩を落として連絡通路を戻って行った


2日目は夜公演だったこともあり、仕事終わりでも間に合うと考えた人が多かったのか、上演開始後に入場された人が何人もいた。自分1人なら良いだろうが、既に着席した多くの客が舞台を見つめているのだ。視界の妨げにならぬよう腰を屈めているのは席へ案内するスタッフだけで、遅れて入場した人で私の席から見える範囲の人たちに腰を屈めて入ってきた人は1人もいなかった。それどころか連れ立ってやってきた他の人が席に着くまで通路で突っ立っている人がほとんど。


他者への配慮と自分への戒め…席料払えば何をしても良いとは言えない。映画も芝居もその作品だけを観るんじゃない。その場の雰囲気も作品の一部なのだと思っている。


感情に任せて暗転で拍手したり、携帯の電源を落とさなかったり、ガサガサと音を立てたり、開演後に入場したり…


人が増えるとあり得ない人も増える…でも、それでも舞台という芸術を絶やさないために受け容れていく…


長い長い道のりだな…


芝居は本当に素晴らしかった。金銭的な問題や時間的な問題が許せば、もっともっと観たかった。


あらためて、松下洸平くんは舞台の人だと思った。舞台公演があると露出は減るが、それでもやはり、そこに立ち続けてほしいと思った。


最後に…芝居の感想というより、1つ疑問。神社に帰還した健太郎(@松下洸平くん)が鈴木巡査の警棒に奉祀を挙げる。その時、彼は着用していた野球帽を脱帽せず神棚に拝礼した。これは敢えてそうしたのかしら…2回ともそうだったから、ちょっと気になって。


SNSで「#闇に咲く花」で検索すると数多くの感想が上がってくる。多くの人が楽しんだことを知れて嬉しいのだが、そのほとんどが「泣いた」とか「号泣」とか…


そうなの、確かに素晴らしい演目で心を掴まれる芝居だった…でも、私は2回とも涙は出なかった。感動もしたし、胸が締めつけられたけど、涙は一滴も…共感して泣くとか、そういうことじゃなくて、芝居に痺れたのは間違いないの。でも、泣くこととは違う思いを受け取った感じかな…


これで、本当に最後に…(笑)なんだけど、健太郎が既に不在の最終幕でのラスト。終戦の日の昼に一斉に打ち鳴らされる近隣の神社の太鼓。愛敬稲荷神社の面々は、鳴り響く太鼓の音に、身構える。それぞれが身を寄せ合うように近づきながら、太鼓の音に挑むような目を向ける。


このラスト・シーンがどうにも私にはストンと落ちてこないのだ。理不尽な健太郎の不在を共有する愛敬稲荷神社の面々は、かつて人々を戦争へ駆り立てた神社の罪を知っている。その結果の「不在」なのだ。戦争終結と平和への喜びを奏でる太鼓の音に「騙されてなるものか」という思いだったのだろうか…


戯曲を読んだ限りでは、まぁ私の読解力が足らないせいかもしれないが、こんな不穏な空気を纏ってはいなかったように思うのだ。


とあるところで耳にしたのだが、太鼓のドンドンという音は当時を知る人たちには爆撃音を思い出させるらしいと…そういうことなら「平和の太鼓」の音が大切な息子を奪った戦時の理不尽を思い起こさせるものだと理解もできる。ただ、何の説明もないとそこに至る発想はなかなか…


その答えがいつか見つけられると良いな…と思った。