今日も徒然、中洲日記

ほどほどに映画が好き。ほどほどに食べることが好き。日々気づいた事を綴ります。

沈黙する教室


現在公開中の映画「僕たちは希望というの名の列車に乗った」の原作本。


原作と映画は場所と登場人物たちの名前が違う。本書の方は実話なので、ドイツ独特の地名や名前が登場する。ドイツの人名が頭に入ってこない(汗)。ちょっと読むのに苦労した。


「沈黙する教室 1956年東ドイツー 自由のために国境を越えた高校生たちの真実の物語」ディートリッヒ・ガルスカ 著/大川珠季 訳(アルファベータブックス)


以下、感想。。。













正直に言うと、映画の方が圧倒的に当時の高校生たちの追いつめられていく状況が理解できた。


大戦後ソ連の監視下にあった東ドイツ。それでも、そこでの暮らしに不満を感じない者だっていた。本書はある小さな町の高校の最上級生クラスでの出来事が、単なる高校生の若気の至りでは済まなくなり、その後の彼らの人生を大きく変えていった「事件」を語っている。


ハンガリーで起きた反体制派の抗議デモ。当時、東ドイツでは自らの体制を脅かすようなそんな事件は報道されなかった。だが、プロパガンダの1つとしてアメリカ系のラジオ放送が伝えるニュースを隠れて聞く人々はいた。


それを知った高校生たちは、暴動鎮圧のために亡くなった人々へ黙祷をしようと決めた。授業開始の5分間、彼らは担当教師の呼びかけにも応じず、黙祷をやりきった。


これが後々、当時の東ドイツ体制への反抗と判断され、党の幹部や大臣が駆けつけてくる事態へと発展する。


何のための「沈黙」なのか、誰が首謀者なのか…教師も体制側の締め付けに飲み込まれていく。


様々な形で高校生たちは大人のプレッシャーを受け続けるようになり、最終学年で受ける統一試験の受験資格剥奪をチラつかされる。それでも、彼らは大人の策略には乗らず、退学させられ、将来の道筋を決める試験の受験資格を失う。


もし、受験するなら彼らは西側に逃れるしか方法がなくなる。それは家族や慣れ親しんだ町を離れ、東ドイツの力の及ばない場所へ逃れること。もう2度と家族とは会えないかもしれないし、町に戻ることも出来ないかもしれない。先の見えない船出をすることになるのだ。


映画ではクラスの中心的な少年数人に光を当て、彼らの家族の状況も描き出していた。当時の東ドイツでの身分格差がなぜ発生したのかも、彼らの両親を描くことで分かるようになっていた。つまり、高校生たちの行動は何も突発的な物でなく、当時の社会の状況も一因となっていたことが分かる。


そうした、家族の背景も含んだ映画は、高校生たちが監視の目をくぐり抜け、西側へ向かう列車に乗り込むまでが描かれる。親の庇護もなく、子供たちだけで…


本作には、高校生たちの家族の来し方までは登場しない。あくまでも本人たちの状況と本人たちが見聞きした当時のクラスや学校関係者、体制側の対応のみ。


そして、何十年も経って、西側に渡った者と東ドイツの町に残った者が、東ドイツの崩壊後、再び会えるようになってからの様子。


物語としては映画の方が訴えてくるものがあった。本の方は当時の「記録」としての意味合いの方が大きかったように思う。実際に当時の証言の記録を掲載している。


同じ「事件」を扱ったものではあるが、視点の違いから随分雰囲気も変わってくる。片方は物語であり、片方は記録。こういうのも変わってる。