幕末、戊辰の役勃発の頃、日本に「藩」はたくさんあった。今でも人の記憶に名を留める大きな藩ばかりでなく、大小様々、現在の都道府県数の何倍も…
それら多くの藩が巻き込まれ、進退を決するのを余儀なくされた戊辰の役。当時、新政府軍に抗い、徳川に殉じる道を選んだのは、しがらみに絡み取られた藩主や要人ではなく、ほとんどが行き場をなくした藩士たち。
その中でただ1人。藩主だった者がいた。それが上総請西藩主、林忠崇。彼の来し方を読む。
「脱藩大名の戊辰戦争 上総請西藩主・林忠崇の生涯」中村彰彦 著(中公新書)
以下、感想。。。
林忠崇の名は「最後の大名」として、テレビ番組で紹介されたことで知っていた。しかし、その最後の大名という呼び名がちょっと彼の本筋ではないことを知ったのは最近だ。
新選組の土方歳三フリークとして様々な書物を読み、その範囲を広げていく途中、戊辰の役にたどり着く。その戊辰の役はその後の日本の行路を決める大きなきっかけとなった。
戊辰の役の検証本や関連小説、論説など見ると腹立たしいことに新政府軍側の視点の物も多く、最近ではこの関連の読書はしなくなった。そんな中で「最後の大名」だったはずの林忠崇が実は、唯一の脱藩大名だったことを知る。
そして、戊辰の役で新政府軍に抗うために藩主自ら脱藩したことで、その後、日本の利権を掌握した薩長を主軸とする新政府から大きな不利益を被ることになったと…
同じ民族でありながら、一時敵対することはあったとしても、その後の政権運営にあたり、1番に処断し、以後継続的に苦しめ続けること…新政府の会津藩への対応などは許しがたく、林忠崇への対応もまさに同じ頭が考えていることなんだなと…
そして、そうした苛烈な処断の中にあって、日和見しながら、立ち回る者たちがいかに多くいたことか…
新政府が掲げた「正義」はけして国のためのものでなく、自分たちのためだけの「正義」だったことがようやく広く世間に知れてきたが、彼らが敷いたレールの上を歩いてきたこの国はいつまでもそのしがらみに囚われる。
奥羽列藩同盟を瓦解に導くための新政府軍の各藩への交渉など、現在ではずいぶん明らかになっている。会津藩包囲において西郷隆盛が庄内藩を取り込んだやり口など、結局、中央を知らない人々を丸め込む手練手管に負けた結果なのに、今でも庄内の人々は西郷隆盛を悪く言わないという。明らかに見下されていたのに、自分たちだけが守られたことで結果オーライ。結局、そういう手に絡め取られ、「義」を捨て去ったのはその国、藩がそういう土壌だったのだろう。
「義」を捨て、生を取る。それも1つの選択。多くの人の「生」を取ったのだと言い切れば良い。確かに、どんな生き方も認められるべきではあるのだから。しかし、その傍らで「義」に生きた者もいる。その者たちから見れば、自分たちがどんな道を歩んだかを、その道を歩んだ恥辱を後世の人間も忘れてはいけないと思う。
学校の教科書には勝者の歴史しか載らない。これからの世代にはその一行の裏に何があったのか知る人であってほしいと思う。